元 楽天株式会社 取締役 常務執行役員
カーディナル合同会社 代表社員
安武 弘晃様
HIROAKI YASUTAKE
創業期を支えたのは、たった二人のスーパーエンジニア。
IPOの後も、少数精鋭の体制は変わらず。
井上
安武
ビジネスモデル的な成功ではなく、技術に関して言えば「スケールさせた」とは言えるかもしれません。ビジネスがスケールするのに、システムがボトルネックにならなかったのは、すごかったなと思っています。最初の2人のスーパーエンジニアが、べらぼうなスキルを持っていたからできたことですね。
当時はまだ Linux も未成熟な頃で、楽天ではFreeBSD のKernel パラメーターを限界までチューニングして 、F1マシンみたいなつもりで動かしてました。
井上
安武
そうしたことと事業の企画、オーガナイズするというか、大企業のSEもやっていたので、間をつなぐ仕事もそれなりにやり方がわかっていました。それをやっていたから、全部知っていただけの話です。
ただ、サーバーとかは落ちるので、データセンター行ってコントローラーにサーキュレーターで風をあてて温度を下げる、なんていうこともやっていました。あまりルールはなかったですね。
井上
僕は最初Exciteにいて、それからYahoo!JAPANに移って検索メインでやって来たんですけど、そういう会社って半分アメリカ資本で、技術のほとんどがアメリカにあるんです。するとアメリカのエンジニアが主導して、それを日本が吸収するというサイクルができあがっていました。
楽天の場合は、そうしたことがないじゃないですか。だから技術はどこから来ているか、興味があるんです。
安武
全部、お手製ですね。
井上
それっていうのは、自分たちのビジネスをやる上においては、それだけで充分回っていたと考えていいのでしょうか。
安武
最初の2人のスーパーエンジニアがすごかったんですよね。彼が京都大学の研究者で、UNIX系のシステムの根っこまで知っていましたから。
井上
やはりそうしたキーパーソンがいるんですね。それ以降の、会社の規模が大きくなってエンジニアも増えてきました、という状況下での技術教育はどうしていたんですか?
安武
ありがちな問題として、スーパーマンは人に教えるのが好きではない、と。ですから私の立場では匠の技を横で見ながら盗むしかなかったですね。私の技術はそうして得たものでした。当時、IPOする前は資金も潤沢ではなかったので、サーバーの増強を安易にするのではなく、チューニングで乗り切っていました。
そして今度はIPOしてお金はあります、といった時に、ビジネスをスケールさせるために何でもやろうと。オラクルの導入とデータセンターの移設と、サーバーのアップグレードを全部一気にやろうとして、そのプロジェクトで大量にお金を使いました。でもまったくダメで、半年ぐらい動きませんでした。それから私がマネージャーというか、プロジェクトのリーダーとしてコミットしていったのが2000年くらい、IPOの後ですね。そのあたりから、プロジェクトマネジメントのもとに人を採用して、スケールする組織にしなくてはいけないね、という考え方に変わっていきました。
井上
そのときのエンジニアの数って、どれくらいでしたか?
安武
まだそれでも5〜6人から10人くらいでしょうか。資金があるので雇えるのですが。
井上
IPOした時に、まだ5〜6人?
安武
それくらいしかいなかったと思います。24時間2交代制でシステムを見張ってました。
井上
外注に出すこともなく・・・すごいですね。
安武
気合いと根性です、ほんと。
井上
エンジニア以外の、いわゆる営業みたいな人はどれくらい、いたのですか?
安武
そちらは20〜30人だったかと。もっといたかもしれないです。ちょうど祐天寺のオフィスが1フロアでマックス20人くらいしか入らず、もう1フロア増床して、合わせて40人くらい。たしかその時にIPOしたと記憶しています。
井上
IPOして40人ですか。かなり少なかったですね。
安武
ちょっと古い話なので、記憶が曖昧ですが。
井上
まずプロジェクトをちゃんとマネジメントしていこうという流れがありつつ、最先端の技術を取り入れるということより、ちゃんとオーガナイズすることが必要だったわけですね。
安武
最先端の技術より、とりあえず目の前のシステムを動かすことが先決でした。
井上
うまく回り始めて余裕がでてきたのは、いつごろですか?
安武
2005年くらいからだと思います。IPOの後、2005年までになにがあったかと言うと、インフォシークと旅の窓口の買収。インフォシークはインテグレーションも時間をかけて行って、そのあたりから技術的にどう運用していこうかという議論が出始めました。融合のプロセスは、最初の買収だったので慎重に行っていきました。
井上
そのときはインフォシーク側にも、コアなエンジニアが残っていた?
安武
いました、いました。
井上
その人たちは、辞めずにいましたか?
安武
そこそこ長くはいたと思います。ちゃんとした技術を組織で活かしていこうとなったのが2005年くらいで、それまではデータベースを維持してまともにシステムを動かすだけで精一杯でした。
井上
ファスト社と合弁事業も始めましたよね。
安武
それはだいぶ後です。モバイル向けの事業で、2007年くらいだったかと。
井上
じゃあ、インフォシーク組と、楽天に元からいた組で・・・
安武
私の個人的な見方かもしれませんが、六本木ヒルズへ移転する前は、別の会社、組織だったんです。六本木ヒルズで初めて一箇所にまとまったんです。そこから一緒にやろう、となりました。
井上
そのうち、ラボの開設となりますが、あれはいつですか?
安武
楽天技術研究所ですね。2005年12月です。その後1年ほどの準備 期間を経て実働し始めたのが 2007年です。森正弥さんという所長が入社したことで、ちゃんと組織として動き始めました。
井上
いまでも所長は森さんですか?
安武
はい、そうです。
井上
あと、ニューヨークにもつくりましたよね?
安武
はい、2010年につくりました。
井上
そこに元バイドゥの萩原さんが行ってましたよね。
安武
はい、ニューヨークの楽天技術研究所の所長をされていた関根先生が自然言語処理では有名なニューヨーク大学の教授で、その流れで荻原さんも加わってもらいました。
井上
いまでもニューヨークだけですか?
安武
今は、パリ、シンガポールやボストンにも研究所が存在します。
井上
ボストンでは、どんな活動を?
安武
ボストンでも MIT など素晴らしい大学がありますので、優秀な研究者に加入してもらい、都市を超えてチームの垣根なく協力して働いています。ボストンには、昔ファストで働いていて、サーチの仕事をしていたチームがあり、マイクロソフトに買収された後に独立してコンサルティング会社をやっていたました。その会社をこんどは楽天が買収して、一緒に働いていたりもしています。自然言語処理の話やサーチの技術は親和性が高いので、今はボストンが強い拠点となっています。
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